「苦」の話

 

「楽」とは何でしょう。
「苦」とは何でしょう。

早い話が
「真我」が「楽」であり
「偽我」が「苦」です。
 
この現象世界に
神様の世界を表現するために
本当の自分
「常楽我浄」の「真我」
に目覚める
 
それが私たちの目的です。
 
人は「苦」を厭い
「楽」を求めますから
「楽」を求めているうちに
「本当の「楽」は真我に目覚めなければ得られないのだ」
という事を、だんだんに悟るようにこの世界は出来ているのです。
それこそ、何べんも生まれ変わりながら。
 
ですから
「真我」と「偽我」をどうやってわけたらいいのか
とか、
何が「真我」で何が「偽我」なのか
という疑問が湧いてきたとしたら
答えは簡単です。
何らかの苦しみがある時点で
それは「偽者の我」
本来存在しない「偽我」なのです。
 
それは環境や状況からくる「苦」もあれば
病気等尾の肉体的な「苦」もあるでしょう。

特に注意しなければならないのが
道を求める人が陥りやすい「苦」に
自分ばかりが正しいと思い込み
周りの人に「悪」を見て
周りを裁いて不快になる
というのもあります。
環境は「自心」の投影ですから
周りが「悪」に見えるのは
自分の中に「悪」があるからなのです。

しかし、繰り返しますが
どこまで行っても
「苦」の時点で
それは、本来存在しない
「偽者の我」なのです。

無料って良い事?

 

うろ覚えですが仏教の話です。
お釈迦様のお弟子さんが、お釈迦さまから
「貧しい人は前業によりて今の姿がある
 その人に慈悲心を起こさせることにより
 その人の業を解く機縁となすため
 貧しい人のところへ托鉢へ行きなさい」
と言われて、言うとおりにしていたところ
 
お釈迦さまも一目置く維摩詰と言う人が
「現象の富の大小に捉われてはいけない」
と諭す話があります。
 
霊的な修行が進んでくると
「お金」とか「富」とかを
汚いもののように思う時期がありますが
以前にも書いたとおり
「お金」は「働き」の代用品ですから
それ自体にきれいも汚いも無いのです。
どこまでいっても、現象は心の影ですから
その「お金」の奥にある「心」に
きれい、とか、汚い、があるわけです。
 
ですから
上記のお弟子さんが、逆に
「富者から、富に執着する心を解放するために
 富者を選んで托鉢する」
といったとしても、理屈が通っていますし
それはそれで正しいのです。
 
何がいけないかというと
「どれかでなければいけない」と
現象レベルで捉われてしまう事です。
 
私は何々をするのに、お金を取らない。
お金を取ることは悪いことだ。
 
と、思っている人は
さも自分で良い事をしているように思っていますが
その実、自他隔絶の傲慢な「我」を握っている場合があります。
 
「働き」の代用品である「お金」が
スムーズに流通する事も
「神様の世界」が「現象世界」に展開する「相(すがた)」の一つです。
 
何か人の為になる事を書いた本を書いても
その、紙代やら流通費やらを無視して
無料でその本を出版することは
はたして良いことでしょうか。
 
印刷してくださった工場にも
それに相当する収益をまわす事の方が
神の御心にかなっていないでしょうか。
 
また、
無料で何かをするのは
するがわの「傲慢さ」と共に
される側の「依頼心」を助長することにもなりかねません。
 
それこそ、その人の「心の問題」で
その人の現状があるわけですから
そこを直さずに無料で施しをするのは
かえってその人の為にならないのです。
 
ならば、どうしたらいいのでしょう。
 
神様に聞けばいいのです。
その人には施すべきか
ちゃんとお金をもらうべきが
その人にとって一番良い方法
また、自分の魂の成長にとって
一番いい方法を知っているのは
神様に他ならないではないですか。
 
握っている「現象我」を捨てて
素直になる事です。
すなおに、自分に内在する
「神様の言葉」に耳を傾けましょう。

あなたの「神生」は成就している

 

「仕事」を例にとりますと
その「仕事」は
「肉体個我」の「力み」「巧み」「はからい」
によって成就するのではありません。
 
その「仕事」の
「神様」なる「本来相」によって
成就するのです。
 

 
その「仕事」は
「神様」なる「本来相」によって
既に成就しているのです。
 
それを知り
大安心(だいあんじん)の境地で
すべてに感謝していれば
 
自他一体、天地一体となって
スムーズにその「仕事」が
現象世界でも成就するのです。
 
あなたの人生に
何か目標があるのなら
そしてその目標が
我欲」から来たものでは無いのなら
 
あなたの人生は「神生」ですから
その目標は
「神様」なる「本来相」によって
既に成就しているのです。
すでに「本来相」によって「成就」しているからこそ
現象のあなたに「目的」として現れているのです。
 
なんとありがたいことではないでしょうか。
 

 

夢から覚めましょう

 

自分が「肉体個我」である、という夢から覚めましょう
自分が「肉体」ではないけれど
「霊的個我」だと思っている人もいますが
 
自分が「霊的個我」である、という夢からも覚めましょう
 
あなたは全一(ぜんいつ)なる「無限意識」です。
ある時空のある一点に焦点を合わせている
それが現象世界の「霊的個我」であり「肉体個我」であるに過ぎないのです
 
夢から覚めた時
あんなに苦しんでいた問題事や肉体の病が
綺麗に無くなっていることに気づきます
気づくまでは、かつて自分が苦しんでいた事さえ忘れてしまっているはずです

唯々「愛」なるかな

 

本当に存在するもの
 
それは「神様」と
「神様」の創(つく)りたもうたもののみです
 
何ゆえに「神様」は創(つく)りたもうたのか
それは「神様」の「愛」を実現するためです
よって、存在するすべての本質は
命そのままに「愛」なのです
 
天地間、唯々(ただただ)「愛」のみ満ち満つるかな
全人類は、唯々「愛」なるかな
全生命は、唯々「愛」なるかな
全存在は、唯々「愛」なるかな
森羅万象、唯々「愛」なるかな
そして
我が全身全霊、唯々「愛」なるかな
 
これは皆さんの事です

全一(ぜんいつ)

 

われは「全一(ぜんいつ)」なり
「次元」「時空」の束縛の外にあるものなり
われが「次元」「時空」の創造者であり
われが「無限次元」「無限時空」を内包するものなればなり
 
相対する何物も無い
相犯しあう何物も無い
 
「全一(ぜんいつ)」即ち「愛」なり
「愛」絶対の世界 それこそが実在の世界
「絶対なる実在」こそ「われ」なり
 
これは、皆さんの事です。

愛の話

 

あなたはすべてを愛していますか。
性愛とか、執着の愛ではなく
同じ神様の命を生きている、魂の兄弟として
本当にすべてを愛していいると
自信をもっていえるでしょうか。
 
いわゆる「愛他的行為」には熱心なのに
心の中にちっとも「愛」の無い
本末転倒な人もいます。
 
勿論「愛」には「行為」が伴って来なければなりませんが
「神様の愛」は「法界にみつる英知」が伴っていますから
心が「愛」に目覚めれば
自然に「何をなすべきか」がわかってくるのです。
先に「行為」を求める必要は無いのです。
 
ですから、まずは
すべてを
全人類を
全生命を
全存在を
森羅万象を
 
神様がつくりたもうたままの
本当の相(すがた)として
愛する事から始めましょう。
 
しかし、なんとなれば
あなたの本来相は「神様」ですから
命そのままに、全てを愛しているのです。
それに目覚める事が必要です。